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言葉は天地を動かすかもしれない - ディスコースの理論

「実践」について理論的に考えると言いつつ、コパイロツトとして最終的にわかりたいのはプロジェクトだ。ところで、現代のプロジェクトで言語が登場しないものはほぼ皆無だし、しかも言語は補助的にちょろっと登場するのではなくプロジェクトのコアを占めることが少なくない。「言葉はいらない、ハートだ」と言うような人でさえ、たとえば、プロジェクトの地位を正式なものにするためには、様々な書類と、上司・関係者への説明が必要になる。また、日常的にメンバーと言葉でやりとりしなければ、業務的にも精神的にもプロジェクトは回らない。

そういうわけで、プロジェクトについて理解したければ、実践のなかでもとりわけ言語を使う実践(言語的実践)に注目するのが一つの有望な戦略だろう。

実は、実践について理論的に考える哲学者のなかには、まさに言語を中心にして実践の理論を組み立てた人々がいる。かれらは、言語を単に数ある実践形式の一つとして考えるのではなく、言語を最重要の実践形式とみなしたり、あらゆる実践形式は究極的には言語的実践なのだと考えたりする。

こうした哲学的伝統の影響を受ける人々は、(かなり大雑把に言えば)言語的実践とその集まりを指して言説(discourse)と呼ぶことが多い。この記事では、言説に注目する実践理論を概観してみたい。登場するのは、主に、会話分析と批判的言説分析だ。後者は要するにフーコーの議論のことだと思ってだいたい合っている。

今回も、言説にかかわる議論を完全で正確な紹介ではなく、どのような議論がなされてきたかの大雑把なおさらいをしていきたい。

文献情報: Davide Nicolini, Practice Theory, Work, and Organization: An Introduction. Oxford University Press, 2012.

会話分析——ミクロ志向の言説研究

はじめに注意しておくべきなのは、「言説*」という言葉で哲学者が何を指したいのかが哲学者ごとにかなり違う場合があるということだ。この違いは、言葉を使うということのミクロな側面とマクロな側面のどちらに(もしくはその中間に)注目するかの違いによって生じるものだ。

*英語読みで「ディスコース」、またはフランス語読みで「ディスクール」というふうに、カタカナ語を使う人もいる。

ミクロな側面とは、簡単に言えば、我々が(ごく普通の意味での)言葉をどのように使っているか、またそうすることで何をしているかだ。我々は、言葉を使って、たとえば電話をかけたり挨拶をしたりする。しかし、たとえば同じ「おはよう」を取っても、前後のやり取りや発話者と聞き手の関係や言い方によって、「おはよう」は挨拶にも侮辱にも脅迫にもなるだろう。では、我々はどうやって自分の「おはよう」が侮辱でも脅迫でもなくフレンドリーな挨拶として理解してもらえるように言葉を使うのだろうか。

こうした研究は会話分析(conversational analysis: CA)と呼ばれる。会話分析の問題関心は、以前見たエスノメソドロジーとよく似ている。エスノメソドロジーが目指すのは、ある専門的スキルを持つ人がどうやってそれをうまくやれているかの解明だ。ところで、言語を使う能力、とりわけその言語の話者に共有されているニュアンスの理解にしたがってその言語を使う能力は、専門的スキルの一つだ。こうして考えると、人々がどうやって言葉をうまく使えているのかの解明は、まさにエスノメソドロジーの仕事なのだ。エスノメソドロジーのうち言語運用能力の研究が分離独立して独自に発展したのが会話分析だと考えて差し支えない。

以前、エスノメソドロジーの課題として、ローカル志向すぎる点を挙げた。これは会話分析にもそのまま当てはまる。ある二人が言葉でやりとりをしているとき、その二人が何をしているか(仲良くおしゃべりしているのか、一方が他方を脅迫しているのかなど)を説明しきるには、その二人の言葉のやりとりだけを見ていては不十分ではないか。もっと大掛かりなもの、たとえば権力関係や歴史的文脈のようなものに言及しなければ、二人が言葉を使って何をしているのかを説明できないのではないか。こういう批判が、会話分析に対して投げかけられる。

批判的言説分析——マクロ志向の言説研究

そこで注目されるのが、言葉を使うということのマクロな側面だ。これは、簡単に言えば、我々が(ごく普通の意味での)言葉とそれ以外のものをどのように混ぜ合わせているか、またそうすることで何をしているかだ。「それ以外のもの」には、具体的には、言葉が使われている状況や、その状況を取り巻く制度や社会構造がある。

改めて「おはよう」の例を使おう。親しい友人同士で言う「おはよう」は親しげな挨拶だろう。しかし、債権者が債務者に対して言う「おはよう」は要するに借金返済要求かもしれないし、男性の学生が初対面の女性教員に対して(「おはようございます」の代わりに)言う「おはよう」は何らかの意味で女性蔑視にあたるかもしれない。こういうことを判定するためには、「おはよう」という言葉の意味を調べても、また「おはよう」がどのような速さや口調で言われたかを調べても、あまり意味がないだろう。重要なのは、やりとりの参加者がどういう人であり、そういう人は過去ないし現在どういう社会的影響を受けているかだ*。

*「男性学生が女性教員にタメ口を使う」というのが女性蔑視にあたると判定する根拠は、たとえば、この社会では女性が蔑視されてきたという歴史的条件や、本来なら学生は教員にタメ口は使わないはずだという慣習だ。これに対して、学生と教員の対等性を重んじてタメ口が伝統になっているような環境では、ある男性学生がある女性教員にタメ口を使っても女性蔑視にならないだろう。こうして、ある言語的実践の意味を判定するために多くの背景的情報が求められるということがわかるだろう。

こういうことに注目して言語的実践を論じる研究は批判的言説分析(critical discourse analysis: CDA)と呼ばれる。

CDAは、ミシェル・フーコーという哲学者の議論に多くを負っている。フーコーがやろうとしたのは、かなり大雑把にまとめれば、我々の言語的実践がどのような秩序にもとづいてなされているかの解明だ。我々は、いつでも好きなときに好きな言語的実践ができるわけではない。たとえば、どんなに言っても「言ったことにされない」という状況がある(セクハラ被害をどんなに主張してもろくに聞いてもらえないので「主張したことにされない」という状況が、残念ながら現実にある*)。こういうとき、我々の言語的実践を制約しているのは一体何なのか、これがフーコーの問題意識だ。

*この種の問題でフーコーの名前がよく出てくるのは偶然ではない。フーコーの問題提起(の一つ)は、まさに、我々がどのような言語的実践を実際にできるのかに制約があるということだ。

その答えとしてフーコーは「権力」や「ヘゲモニー」といった概念を登場させる。ただし、これらの概念を精確に説明するのはかなり難しく、また誤解の多い概念なので、そうした解説はフーコー入門書に譲りたい。ここではCDA(批判的言説分析)に話を戻そう。

CDAに対しては、まず、「理論ありき」だとかマクロ志向すぎるといった批判がある。ほかにも次のような批判がある。CDAによれば、権力構造が個々の言語的実践を制約することに加えて、その権力構造そのものは個々の言語的実践から構成される。そうであれば、後者についての説明、つまり個人対個人の言語的なやりとりから大掛かりな権力構造がどのようにして生み出されるのかの説明がほしい。とくに、個々の言語的実践(最小単位)と社会構造(かなり大きい)のあいだには中間サイズのものがあるはずで、そうした中間物が果たす役割の説明がCDAには欠けているとされる。

媒介言説分析——CDAを越えて

ものすごく大雑把にまとめれば、会話分析はミクロ志向すぎるし、批判的言説分析はマクロ志向すぎる。では、両者のいいところを取り入れて言語的実践を論じられないだろうか。とりわけ、批判的言説分析の二つの問題を乗り越える理論はないだろうか。

その候補が媒介言説分析(mediated discourse analysis: MDA)だ。最初に注意してほしいのは、MDAは必ずしも言説を中心に据えて実践を説明するわけではない。それにもかかわらずこの記事でMDAを扱うのは、MDAが、会話分析と批判的言説分析の弱点をそれぞれ乗り越えるポテンシャルを秘めた理論だとされているからだ。

MDAは、行為が被媒介行為(mediated actions)である——つまり、世界に特定のものがあってはじめて可能になる行為である——ということに着目して社会現象を説明する。どういうことか。たとえば、「お金を払う」という行為ができるためには、世界に貨幣というものがなければならず、また貨幣と引き換えにモノやサービスを受け取ることを正当な取引として認める社会的慣習がなければならない。こういう意味で、「お金を払う」という行為は、貨幣や貨幣経済システムに媒介されているといえる。

他方で、だからといって、「お金を払う」という行為を「貨幣経済システム」という社会構造によって説明すればいいというわけではない。話は逆で、貨幣経済システムを説明するには実際の金銭支払い行為に言及しなければならない。具体的な金銭支払い行為がまったくないところに「貨幣経済システム」という構造だけが宙に浮いて存在することはできないからだ。これがMDAの基本路線であり、また重要なポイントだ。

さて、行為を媒介する「特定のもの」には具体的にどのようなものがあるか。上の例では、貨幣(それも一つ一つのコインや紙幣)という物体や、貨幣経済システムという制度がこれにあたる。ほかにも、かねがね話題になっている言説も行為を媒介することがある。こういう意味で、MDAも一応は言説に言及する社会理論ではある。ただし、MDAにおいて言説は媒介物の一つでしかない。会話分析や批判的言説分析とは違って、言説に中心的な役割が与えられるわけではない。

MDAのように考えると何が嬉しいのか。

     
  • MDAは、社会現象を説明するときに使う最小単位がかなり小さい。また、MDAは、最小単位としての被媒介行為のほかに、それをいくつか組み合わせて「何をやっているか」を理解可能にした中くらいのサイズのものを理論に登場させ、これを実践(practice)と呼んでいる*。これらの点で、MDAは批判的言説分析の弱点を克服している。
  • *「お金を払う」では、あまりに行為としてミニサイズで、要するに何をやっているのかがわかりにくい。「グランドピアノを買う」だとどうだろうか。少しわかりやすくなった。「年収300万円のひとり親がコツコツ貯金し、子供がずっと欲しがっていたグランドピアノをローンで買う」まで来ればかなり具体的だ。これと「富豪が親から相続した金を使ってグランドピアノを一括で買う」を比較すれば、最小単位よりも大きなサイズで行為(行為集合といったほうがいいかもしれない)を考えるメリットがわかるだろう。

     
  • MDAが社会現象を説明するときに使うのは被媒介行為である。被媒介行為について考えるときには、当然ながら、そうした行為を可能にしている媒介物(社会慣習、構造、道具、言説、ハビトゥスなど)を参照しなければならず、そのなかには大掛かりなものが当然ながら含まれる。これにより、MDAは、会話分析の弱点を克服している。

一見するとMDAはかなり有力だが、課題もある。最大の課題は、細かいところが不明瞭だということだ。たとえば、言説を含む様々な媒介物は具体的にどのように働くのか。また、我々が好き勝手な実践をできるわけではないというポイントはMDAのどこに反映されているのか。実践について理論的に考えるためには、こういう点が明らかにならないといけない。

このように、MDAは、ポテンシャルを秘めつつまだ発展途上の理論だといえる。なお、MDAがこのように発展途上のまま止まっていることの背景には、MDAの主力研究者が早くに亡くなってしまったという外的な理由がある。フォロワーの登場を待ちたい。

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  • 言い方(口調、速さ、トーン)によってまったく意味が変わってしまう言葉の例を挙げてみてください。また、そのせいでプロジェクトにおいて大問題が生じた経験があれば、それも挙げてみてください。

  • プロジェクト参加者が、一見すると平等な発言権を持っているのに、実際には一部の人の意見だけが通ってしまうということはあったでしょうか。また、そういう状況を解消するためにはどういうことができるでしょうか。

  • MDAは、主な提唱者が若くして亡くなったため、この理論をどうやって現実に適用するかがあまり練られていません。あなたならMDAの考えをどう生かしますか。

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