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チームはどこから来るのか ー 実践共同体

チームにとっての「ベストなやり方」はどうやって決まるのだろう?

例えば、上手くいかなかったプロジェクトチームを思い出してみよう。どうして「やり方」を変えられなかったのだろうか。実績のあるベストな方法論になぜ従わなかったのだろうか。そういう文化だから?

逆に、非常に良いプロジェクトチームはなかっただろうか? 解散が惜しまれる「我々」感覚はどこから来たのだろうか? 誰かが「進め方」を指示した結果だったのだろうか。新メンバーが全然違う進め方を始めたときにそれを「違う」と判断し軌道修正できたのは、どうしてだろうか。

こうして次のような疑問が浮かぶ。

  • プロジェクトチームにとって「良い進め方」ってどう決まるのだろう?

  • プロジェクトチームはいつ「我々」になるのだろう?

こうした疑問に答えずに、汎用性のあるプロジェクト推進の方法論を提唱しようとしても無理があるだろう。チームにとっての「我々」感覚とは何か、それをもたらすやり方はどのようにして受け入れられるのか、こうしたことを踏まえずしてただ「こうすべきだ」と主張・強弁したところで実践的ではない。

実は、冒頭の二つの疑問は密接に絡んでいる。その様子を、実践理論の中でも特に学習的側面に焦点を当ててきた「実践共同体」の系譜から確認しよう。

文献情報: Davide Nicolini, Practice Theory, Work, and Organization: An Introduction. Oxford University Press, 2012.

伝承としての実践

誰が決めるでもなしに「やり方」が決まってしまうのは、ひとつには実践に伝承という側面があるからである。こうした「伝承としての実践」は特に目新しい観点ではない*。ブライアン・S・ターナーによれば「伝承としての実践」において以下二つの側面が長年議論されてきた。

*ギデンズもブルデューも社会構築の説明にあたって、人が社会化(社会の規範や価値観を学び社会における自らの位置を確立すること)するメカニズムに大きく依拠していたという観点では、「伝承としての実践」の重要なバリエーションであると考えられるだろう。
実践の理論を求めて – ギデンズとブルデュー - COPILOT BLOG

  1. 実践は、習慣化や学習の要素をもつ。(個人レベルでの「やり方」「あり方」の伝承)

  2. 実践は、個人を超えて経時的に持続するものの存在を示唆している。(歴史的なもの)

ここで重要なのは、「伝承としての実践」が社会理論たりうるにはこの両面性を説明できていなければならないということだ。例えば、①なしに②を説明しようとするとどうなるか。誰が決めるでもなしに「やり方」が決まってしまうのはなぜかという問いに対して、「時や個人を超えて継承される何かがあるからだ」と答えることになる。しかし、そんな怪しげな「何か」があるという主張は疑わしいし、そういうものがあると言いたいならもっと根拠を示すべきだろう。一方で、①だけで②がなけれは社会理論とは呼ぶことはできない。

では、この「伝承としての実践」の条件に合致する学習理論とはどんなものだろうか。実は見習い(apprenticeship)のプロセスの中にその特殊例が見られる。

実践の学習的側面:正統的周辺参加

実践における学習とは何かを考えるにあたって、真っ先に挙げられる例は徒弟制度や学校だろう。しかし話を二者間(教える側と教わる側)に留めてしまうと、この学習形態が(徒弟制度や学校に限らず)あちこちに見られるということに気付けなくなってしまう。

ジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガーはそのより一般的な学習プロセスとして正統的周辺参加(Legitimate Peripheral Participation)*を提唱した。これはざっくり言えば「最終成果に何かしら責任を負うことも含意するような参加によって、専門性のみならず、社会性(メンバーシップ、アイデンティティ等)をも獲得するような学習プロセス」を指す。言葉を分解しながら詳しく見てみよう。

*以降、LPPと表記する

  • 正統的:「正統(legitimate)」というよりも「基準に合った(legitimate)」と捉えた方が分かり易いかもしれないが、この語は何を学習するにせよ必要条件があることを強調している。それは上述の通り、活動の一部を担うことだ。何の責任も負わずに(非正統的に)参加して、実践を外部者として眺めていても何が起きているか分からない。身を投じて実践が示唆するリスクや感情に浸かることで、初めて何が起きているのかを理解することができる。すなわち、状況理解(knowing)とメンバーシップは表裏の関係にある。

  • 参加:この語は学習機会が参加のコンディションによって左右されてしまうことを示唆している。例えば、料理人になろうとする人にどのような学習機会が開かれているかは、その人がいきなり厨房に立てるのか、それとも最初は皿洗いしかやらせてもらえないのかによって、大幅に変わってくるだろう。参加が社会的プロセスである以上、社会的構造、歴史、力関係などによって学習のあり方が規定されてしまう。

  • 周辺:この語は学習者が関わっている進行中の実践や携わっている人々の中で様々な位置を占めうることを示している。一方で、必ずしも中心があることや、周辺から中心への学習軌跡があることを意味しないことには注意が必要だ。新米が(先輩ではなく)他の新米から学ぶこともあるように、全ての相互作用が実践を修正する学習機会である。

さて、このLPPという概念から冒頭の一つ目の疑問「プロジェクトチームにとって良い進め方がどう決まるのか」が説明されよう。逆に、なぜ「これがベストだ!」と叫んだだけでは誰も言うことを聞いてくれないのか。自分の実践なら黙って変えればよいが、黙って変えられないということは(特にその実践について)正統性をもっておらず、周辺にいることを示唆している。そして周辺にいるということは相手が自分から学んでくれる度合いは限られることが分かる。

実際、LPPによれば「やり方」を変えようとしている人は常にジレンマにさらされる。対象とする実践において、正統的に参加するか、非正統的に参加するかのどちらかしかないが、前者の場合、他人に既存の実践に従事しているとみなされるためにも、過去の経緯や規範「やり方」を尊重しなければならない。しかしこれは当初の実践変革のモチベーションと反する。一方、後者の場合、周辺に位置しているので相手が自分から学んでくれる度合いが限られており、変革に成功しない。この板挟みの中で実践を変化させていくしかないのが、難しいところでもあり実践者の醍醐味でもあろう。

この順守と変革という一見対立する要素は、ややもすると忘れられがちな、実践(practice)の「練習」という語義がすでに和解させている。LPPは練習(practice)における、コツを覚えるというのと、スキルを磨くという両方の要素を取り込むことで、ターナーの指摘した「伝承としての実践」の二つの側面(①習慣化②伝承)を橋渡ししているのだ。特に新たな心的概念*、図式、実践以外の概念を用いずとも両面性を説明できるという点で、実践理論の観点からも優れた長所を持つ分析的枠組みだとも言えるだろう。

*習慣化を説明するためにハビトゥスを必要としたブルデューとは対照的である。実際、学習や知識を個人の頭の中ではなく実践の網の目に埋め込まれているとするLPP(および状況に埋め込まれた学習)の教義は、学習を、心理学的な概念に頼らずとも分析可能としたことで、多くのエスノグラフィーを用いた研究を誘発した。

「実践共同体」という語のあやうさ

ここで少し立ち止まってみよう。上の説明で「参加」「周辺」「メンバーシップ」という言葉を使ったが、これは何かの存在を示唆していないだろうか。何への参加であり、何の周辺なのか?

実は、LPPは構築主義機能主義)という相反する立場のどちらにも転びうる概念であり、前者と親和性が高いのが「実践」、後者を喚起するのが「共同体」という語である。この二つの語の関係性に関心を払っているのが、実践共同体(Community of Practice)という表題のもと行われてきた一連の研究だ。

もともと「共同体」という語はエティエンヌ・ウェンガーによって、見習いの二者(教える側、教わる側)構造を脱中心化するため用いられた。確かにこの発想には、熟達性を、マスターが負うものから、マスターをも含む集団(共同体)が負うものとして考えられるようになるメリットがある。

しかし彼が警告しているように「共同体という語は必ずしも、共生していること、定義された集団、社会的な境界があることを示唆しているわけではない」ことは留意が必要だろう。それでなくとも、上位の社会的存在を仮定するような言葉の利用には常にリスクや弊害が伴う。

例えば、「共同体」という語を使うことで結果的に、力関係を扱えなくなってしまったという指摘や、どう実践が変化・刷新されるか何も語らなくなってしまうという批判がある他、ウェンガーでさえ後に、自分の警告をよそにバウンダリー(境界)という概念を持ち出してしまうくらい、「実践」と「共同体」という語を併用することは危険なのである。

実践の結果としての共同体(感覚)

確かに、共同体(コミュニティ)という語は魅力的だ*。しかし、ウェンガーが信じていた(と思われる)ように実践と共同体が同義であれば、共同体という単語を落としてしまっても良いかもしれない。なぜなら、実践を用いて、以下の通り共同体感覚を上手く説明することができるからだ。

*社会科学者の間でも、ゲマインシャフトを提唱したテンニースから地理的近接性の重要性が薄れた現在に至るまで、総じてポジティブな言葉として、あるいは理想的な社会形態として語られてきた。

     
  • まず、実践に参加する(しているとみなされる)ためには規範や卓越性の基準を受け入れている必要がある*。そして良さの感覚は他者や状況との関係の中で決まるのであり、そこには目的・タスク・信条の許容範囲、各目的達成に適切なタスク、何が適切かを説明する様々な資源、実践に伴うべき正しいあるいは許容される感情までもが含まれている。これら共通資源に基づいてはじめて人は互いの実践を理解可能となる。
  • *例えば、野球を始めた頃、先輩の方がボールを上手く投げられるということを受け入れないことには、上手く投げることはおろか、良いピッチングとは何かを判断することすらできないだろう。

     
  • さらに、実践に参加し続けるということは、それを好ましいもの(我々のやり方)として自ら選び続けることに他ならない。つまり実践を通じて人は、個人及び集団としてのアイデンティティを構築している。
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  • 最後に、学習的側面を併せ持った実践を通じて、実践者は特定の能力のみならず、実践共同体の特徴である共通資源のレパートリー(ルーティン、感受性、人工物、ボキャブラリー、スタイル等)を得ている。これによって実践者達は自らを(外側から見て)実践共同体として識別できるようになる。

まとめると、実践に参加する要件が様々なことを含意していて、その含意の結果として共同体の特徴と同じものがもたらされている。実践の結果としての繋がりや共同体なのであって、その特徴を表現するのに「共同体」という語を使う必要はないのである。

さて、これらは冒頭の二つ目の疑問「プロジェクトチームの我々意識はどこから来るのか」に答えてくれる。共同体感覚は実践を通じて体験されるのだ。アイデンティティは実践を実践たらしめている性質と、その実践が生んでいる資源から生じているのである。さらに上述のLPPと併せて考えると、効果的なチーミングには、各メンバーに正統的な参加、すなわち最終成果物に何かしらの責任を負うような実践参加を促すことが重要だろう。

モノを扱わないことの限界

しかしながら、この実践理論にも限界がある。

まず、実践の維持は良く説明するものの、変化は上手く説明してくれない。もちろん、学習は完璧な再生産を意味しないので、この点に限って言えば変化の説明をしてはいる。実際、学ぶことは既存の力や知識の網目に参加することと、それを破壊することの両方を意味する。とはいえ、単なる新参者の社会化による変化だけでポスト産業化社会(ましてや情報社会)における急激な社会変化を説明するのは無理があるだろう。

また、権力、イデオロギー、支配を含む広いコンテキストを取り残してしまうのもこの理論の弱点であろう。確かにミクロレベルの相互作用では議論されているが、そもそもの新参者の参加機会・誘引・摩擦の内実に影響を与えるような、広範な社会経済的な要因が考慮に入れられていない。

この二つの限界に共通しているのは、物的環境や媒介物という観点の欠落である。人工物を媒介とする実践の発達に関しては、別の機会に「活動理論」から深堀ってみることにしよう。

あなたのプロジェクトについて教えて下さい

  • あなたが過去に、経営本やプロマネ教本で「ベストなやり方」を学んだことを思い出して下さい。それをそのまま職場やプロジェクトチームに適用できたでしょうか。反発されたとしたら、なぜでしょう。どうすれば良かったでしょうか。

  • プロジェクトにおいて参加意識の薄かったメンバーを思い浮かべて下さい。なぜ参加意識が薄かったのでしょうか。そのメンバーはどうすればもっと主体的に関われたのでしょうか。

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