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実践の理論を求めて – ギデンズとブルデュー

何につけても「理論より実践だ」とよく言われる。たしかに、どんなに立派な計画でも実際にうまくいかなければ何にもならないし、能力がないのに能書きだけ垂れる人というのは多くの活動において鬱陶しい。もし「理論より実践だ」というのがこういうことを意味しているのであれば、そんなにおかしな主張ではないだろう。

では、その「実践」というのはどうやったらうまくいくのだろうか。もしくは、「実践」がうまくいっているとはどういうことで、その判定をどうやってしたらよいのだろうか。ひとつの考えとしては「見りゃわかる」というのがある。しかし、他人様の「実践」について助言をするときにそれでは心もとない。「実践」についてそれなりにしっかりした理論がほしいのはこういう理由による。

とはいえ、「実践の理論」とは一体どんなものだろうか。「実践」の「理論」というものはそもそも可能なのか。仮に可能だとすると、これまでどんな議論がなされてきたのか。

哲学や社会学には、実践がもつ特徴や役割を論じる実践理論(practice theory)という研究領域がある。哲学者がいう「実践」が「理論より実践だ」などというときの「実践」に本当に対応するかどうかは難しい問題であり、私もよくわからないのだが、一旦それを棚上げして、まずは実践理論が積み上げてきたものを簡単に見ていくことにしよう。

この記事では、初期の実践理論としてアンソニー・ギデンズとピエール・ブルデューという二人の社会哲学者の議論を取り上げる。かれらの議論を完全に正確に紹介するのは無理なので、ここではかれらの「実践」関連の議論を大雑把におさらいしたい。この記事を通して、学者だったら「実践」の理論をどういうふうに始めるかを見ていただきたい。

文献情報: Davide Nicolini, Practice Theory, Work, and Organization: An Introduction. Oxford University Press, 2012.

ギデンズの場合

人間には、個人が好きなようにできることと、何らかの社会的影響のために自由にできないことがある——これはあたりまえだ。けれども、何が自由にできて何が自由にできないかの区別を理論的に説明しようとすると、話は一気に難しくなる。

実は、この「あたりまえ」は、伝統的な社会理論ではそれほどストレートに説明されてこなかった。教科書どおりに言えば、伝統的な社会理論で主流だったのは、「個人の行為はすべて社会構造にもとづく」という構造優位の見方と、「社会構造のほうがむしろ個人の行為にもとづく」という個人優位の見方、この二つだ。

ギデンズは、構造優位でも個人優位でもない理論を組み立てた人としてよく挙げられる。その理論のなかで登場するのが「実践」だ。ギデンズは「実践」をおおむね「規則化された行為の型」という意味で使い、次の特徴を指摘している。

  • 実践は知識能力のある行為者によってなされる。

もう少し具体的に言えば、

  • 行為者が、行為の制約要因(ある時ある場所で有効なルールや、ある時ある場所で使える資源)についての知識にもとづいて、日々の様々な行為をする。こういう行為のことを実践という。

この「実践」について重要なのは次の三点だ。

  1. 行為の制約要因といっても、ふつうは行為をただひとつに確定させるほど強いものではない。そのため、行為者にはそれなりに選択の余地があるし、あとで振り返って「他のこともできた」と思える。

  2. 行為者が行為を選ぶときに効果を直接発揮するのは、制約要因そのものではなく、制約要因についての行為者の知識だ。この知識は間違っている場合がある。こうした認識的限界もまた行為の不確定要素となる。

  3. 行為の制約要因についての行為者の知識は、普段は暗黙知であり、行為者は制約要因について反省的に考えることなく日々の行為(ルーティン)をする。しかし、何か問題が起きたときには、行為者は、行為の制約要因について反省的に考えることができる。

ごく大雑把にまとめれば、ギデンズがいう「実践」とは次のようなものだ。実践とは、自分の行為がある時ある場所でどういう要因に制約されるかについての知識にもとづいてなされる様々な行為である。制約といっても、一方では可能な行為をただひとつに確定させるようなものではないし、他方ではいざとなったら反省的思考により逆らえるものだ。そうは言っても、ともかく行為者の行為は普段は一定の制約を受けている。

なるほどいい議論だ。しかし、著者(Nicolini)によれば、ギデンズの議論にはいくつかの弱点がある。その弱点は、ギデンズの議論にもとづいて組織研究(主に企業における実践を扱う社会学の一分野)をしようとしたときに明らかになる。

まず、ギデンズの理論は抽象的すぎる。これだけ抽象的な理論は、経験的研究(実験や観察をともなう研究)によって正しいとか間違っているとか示しようがない。

もうひとつの問題は、個人優位でも構造優位でもないという売り文句とは裏腹に、ギデンズの議論が実際には(知識能力のある)行為者のふるまいを重視しているということだ。とくに、実践の場にあてはめるとギデンズの議論は既存の個人優位の見方に重なってしまう。これでは、個人と構造のどちらにも偏らない理論を求める期待に応えられない。

ブルデューの場合

さっき、個人が好きなようにできることとできないことの区別を理論的に説明するのは難しいと私は言った。この問題をもう少し絞り込むために、具体的な例をひとつ挙げよう。

学部生だったころ、私はいわゆる「楽単」の授業ばかりを取り、自分が何を勉強したいのかをあまり考えていなかった。そのせいで専攻選びや卒業後の進路について苦労した。関連して、英語でなされる講義・演習を私はほとんど取らず、また短期留学の機会を何度も見逃してきた。地方出身者として、東京の大学であれだけ機会に恵まれていながら、過去の私はラクなことばかりしてきたわけだ。今になって思えば完全に愚かだった。

重要なことは、私はこういう学生生活を(普通の意味で)強制されたわけではなく、ごく当然のこととしてラクな科目選択をしたということだ。楽単を集めるのがよいことだと信じてやったわけでも、それではいけないと思いつつやめられなかったわけでもない。「そういうものだ」と思って、とくに疑うことも他の可能性を考えることもなく、やっていたのだ。

これと同じようなことは他にもあるだろう。そこで次のような問いが浮かぶ。なぜ、人は、自分の状況をよりよくする選択肢があり、理論上はそれを選べるのに、あたりまえのようにそれをスルーすることがあるのか?

ブルデューの問題提起は(私の理解では)まさにこれだ。有名な「ハビトゥス」もこれに関連して出てくる概念である。そのブルデューの議論を駆け足で見ていこう。

ブルデューは次のように考える。人々が日常的にやっていること(実践)は、利用可能な資源(資本)と社会的権力(場)とハビトゥスという三つのものの制約を受ける。ハビトゥスというのは、大雑把にいえば、世界の見え方や世界でのふるまい方について各々が身につける実践知である。早い話が、ある人が期待するだけ無駄なものをその人の理解や行動の範囲から取り除くという制約である。他方で、その制約の範囲内であれば、その人が自由に思考・知覚・行動することをハビトゥスは妨げない。

なるほど、私が英語の講義や留学チャンスをことごとく「自分には関係ない」と思って脇にやってきたのは、ハビトゥスという概念で説明がつきそうだ。

ただし、これほどわかりやすいハビトゥスは珍しいほうだ。人々の実践には、もっと複雑で大掛かりなものがある。それをハビトゥスで説明しようとすると厄介な問題が生じる。それを見るために、まず、ブルデューが社会学という学問に何を求めるかを確認しよう。彼は次の二つのことを社会学に求めている。

  • 人々がやっていることを集めて記述するだけでは不十分で、なぜ人々がそのようにしているのかの説明が必要だ。

  • あらかじめ用意された理論(典型的には文化や構造や生産様式といった抽象的なものばかりの理論)を人々がやっていることにあてはめるだけでは不十分で、その理論は当の人々の「実践感覚」に忠実であるべきだ。

第二の条件が重要だ。ブルデューは、人々がやっている様々なことを、ハビトゥスという概念を使って説明しようとした。その過程で、「社会の維持」のようなかなり大掛かりな実践をも取り扱うことになる。しかし、「社会の維持」などという大掛かりなものを人々の「実践感覚」に忠実に説明するのは、ほとんど無理だろう。こうして、ブルデューは自分で言ったことを実行できていないのではないか、こういう批判がなされているのだ。

ただし、著者(Nicolini)の考えでは、これは部分的には仕方のないものだ。そもそも、実践というのは必ず特定の時に特定の場所でなされるものだ。そういった時間と場所の情報を使わないで実践の一般理論を組み立てようというのが、根本的に無理な注文だったのかもしれない。

これとは別に、ブルデューの理論にはいくつか課題がある。

  • ハビトゥス理論は、再生産をうまく説明するけれども、変化をあまり説明してくれない。

  • ブルデューの理論は文化的・象徴的なものに偏りすぎている。実際には、道具や人工物やマスメディアも、ハビトゥスと実践のありかたに影響を与えるはずだ。

  • 行為者が反省的に考えるという要素がブルデューの理論には欠けている。こういう反省的思考も、ハビトゥスと実践のありかたに影響を与えるはずだ。

以後の実践理論(たとえば活動理論やエスノメソドロジー)では、まさにこうした要素がピックアップされて実践が論じられる。

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  • プロジェクトにおいて、ルーティンにもとづく行為から反省的思考にもとづく行為に切り替わる場面としてどのようなものがありましたか。教えてください。
    • ヒント:これまでうまくいっていた行為が、ある日突然うまくいかなくなって、そのせいでプロジェクトの見直しを迫られるということはあったでしょうか。
  • プロジェクトにおいて、あなたや他の人の習慣や行為に、あれはハビトゥスだったなぁと思うものはありましたか。教えてください。
    • ヒント:「今思えば、どう考えてもやめたほうがよかったが、当時は他の選択肢を考えられなかった」というものはあるでしょうか。

 

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